「……すごい霧だな」
思わず、独り言が漏れる。夏の早朝7時。視界を確保しようと目を凝らしてみるけれど、数メートル先はもう白い闇に溶けていく。聞こえるのは、静かに路面をかくロードスターRFのタイヤ音と、静かに響くエンジン音だけ。
ここは、箱根国道1号線、「天下の険」。
毎年、正月2日の朝。凍えるような寒さの中、日本中が熱狂する箱根駅伝。その往路5区、数々の伝説が刻まれてきた「山登り」のコースです。
『一体、彼らはどんな気持ちでこの坂を駆け上がっていくのだろう?』
これは、快適なクルマのシートに座る僕が、己の五感を通して、若きスペシャリストたちの「物語」に少しでも触れようと試みた、旅の記録です。
別の動画の解説もあります。

なぜ僕は、箱根駅伝「山登りの5区」にこれほど惹かれるのか
僕自身、陸上経験があるわけではありません。それでも、毎年テレビの前で、この過酷な「山登り」に挑む若者たちの姿に心を揺さぶられてきました。
各大学が選び抜いた「登りのスペシャリスト」だけが走ることを許されるこの区間。チーム戦でありながら、一度山に入れば、そこはもう孤独な個人戦です。
そして、この道にはもう一つの物語が流れています。それは、江戸の昔から旅人たちを癒し続けてきた「箱根七湯」の物語。
今回は、選手たちの汗の記憶と、古の湯の記憶。二つの物語を辿ってみようと思います。
英雄たちを癒した湯の香を辿る。国道1号線と箱根七湯
江戸時代、「箱根七湯」とは、東海道沿いに点在する七つの温泉郷の総称でした。
- ① 湯本、② 塔之沢、③ 堂ヶ島、④ 宮之下、⑤ 底倉、⑥ 木賀、⑦ 芦之湯
この旅では、駅伝コースのルートに沿って、これらの温泉地を巡っていきます。
① 湯本:喧騒と静寂の境界線
僕の旅も、選手たちの山登りも、この「湯本」から本格的に始まります。
夏の早朝、いつもは賑やかなはずの箱根の玄関口は、まだ眠りの中にあるように静まり返っていました。土産物屋も固くシャッターを下ろしています。

『ここが、世界の分かれ目なんだな…』
暖房も冷房もいらない快適な車内で、僕は思います。正月2日の朝、選手たちはここから、凍てつく寒さ、時には雪が舞う山へと挑んでいく。僕には想像もつかない世界です。
② 塔之沢:文豪たちが愛した静寂の谷
湯本の街を抜けてすぐ、世界は一変します。深い緑と渓谷に抱かれた「塔之沢」温泉。

ここは、福澤諭吉や夏目漱石といった文豪たちが愛した静寂の隠れ家です。ロードスターの窓から見える老舗旅館の佇まいは、まるで時間が止まったかのよう。彼らもこの静けさの中で、心身を癒し、新たな思索にふけったのかもしれません。
③ 宮ノ下周辺:歴史と声援、そして神々の劇場
本格的な登りに入ると、まず現れるのが「最大の難所」とも言われる「大平台ヘアピンカーブ」です。

『壁だ…。』
思わず声が漏れるほどの急勾配が、目の前に立ちはだかります。ロードスターが力強く唸りを上げ、ぐいぐいと坂を登っていく。
そして、宮ノ下温泉にたどり着く。

この厳しい坂が続くエリアは、箱根七湯のうち堂ヶ島、底倉、木賀、そして中心地である宮ノ下という四つの温泉が寄り添う、まさに山の心臓部です。
その中でもひときわ華やかなのが宮ノ下。明治時代に開業した壮麗な「富士屋ホテル」 を中心に、国際的なリゾート地として栄えた歴史の面影が、今も色濃く残っています。
さらに、富士屋ホテルの前で繰り広げられる、選手個人の名を絶叫する「宮ノ下スタイル」の応援。
「今井!」「柏原!」
僕は思わず、歴代の「山の神」たちの名を心の中で叫んでいました。彼らがこの過酷な道を、伝説の舞台へと変えたのです。
宮ノ下を過ぎ、さらに1キロほど進むと、駅伝の名物の一つ「小涌谷の踏切」に差しかかります。

ここでは、電車がランナーのために停止するという、信じられない光景が繰り広げられます。この「ランナー優先」の光景こそ、箱根駅伝が地域全体で支える特別な祭典であることの証です。
④ 芦之湯:白い闇と、ロードスターの感覚
小涌谷を過ぎ、さらに標高を上げていくと、芦之湯エリアが近づくにつれて、世界は徐々に白く霞み始めました。

七湯の中で最も高い場所に位置する「芦之湯」。ここに着く頃には、霧はさらに深くなります。動画のこのあたりが、最も霧が濃くなっているはずです。視界が悪くなりますが、幻想的な風景の中、手探りで進むような感覚です。
そして、ついにその瞬間が訪れます。標高874mの「国道1号線最高地点」。

それまで唸りを上げていたエンジン音がふっと静かになり、車体が前に進むのをやめたかのような、一瞬の浮遊感。登りきったのです。
『ここか…!』
しかし、喜びも束の間。道はすぐ、まるで奈落に落ちていくかのように、急な下りへと転じます。霧で先が見えない中、車体がすーっと吸い込まれていくような、不思議な感覚。
普段なら芦ノ湖が見えるポイントがあるはずですが、今日は何も見えません。選手たちもまた、極限の疲労の中、この見えない下りへと身を投じていくのです。
ゴールへ:霧の芦ノ湖畔にて
白い闇の中を下っていくと、不意に前方に、ぼんやりと広がる大きな水の気配がしました。芦ノ湖です。

霧に煙る湖は、どこか幻想的で、この世のものとは思えない静けさに満ちていました。国道1号線は湖にぶつかるT字路で終わり、僕はハンドルを左へ。関所方面へと少し走った先の湖畔の駐車場に、ゆっくりとロードスターを滑り込ませました。
こうして、僕の静かな旅は、終わりを告げました。
まとめ:霧が教えてくれた、本当のこと
ゴール地点の芦ノ湖は、深い霧の向こうでした。本来なら雄大な富士山が見えるはずが、この日は完全なホワイトアウト。

でも、それで良かったのかもしれません。
もし晴れていたら、僕はきっと「絶景だ!」なんて、呑気な感想を抱いていたでしょう。でも、視界が遮られたからこそ、僕は彼らの「孤独」のほんの一端に、触れられたのかもしれません。
このドライブは、彼らの偉大さを肌で感じ、自分の小ささを知るための旅でした。
動画の最後に、おまけとして同じ場所から撮影した、晴れた日の絶景をご用意しました。僕がこの日見ることのできなかった美しい景色と、霧の中だからこそ感じられた選手たちの息遣い。その両方を感じていただければ幸いです。

もしよろしければ、ヘッドホンを使ってみてください。 深い静寂の中に響くロードスターのエンジン音と共に、霧の向こう側を、あなたも想像してみませんか。




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